アメリカ映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密(The Imitation Game)』(2014)を見た。たいへんよかったので
伝記をいつか読みたいと思う(いつ読めるようになるのかは不明。まったくもう、英語力のなさに受ける)。あと、実際の歴史との差を知りたい。俺、それでも計算機科学をちょっとだけ勉強したんだぜ?彼の業績をまったく理解していない俺があまりに無様で受けるな。英語の壁と数学の壁と両方がある。
うまいこと脚色されている点はあるにしても、本邦においては題材となる歴史的事実も、それを娯楽映画に昇華させるだけのスタッフも(当然)存在しなさそうなので、
これが先進国かイギリスすげえな、という小学生並の感想をまず思いうかべた。
題材となる歴史的事実それ自体の良さ(?)はもちろん映画そのものの出来とは無関係とは断っておくけれども、
枢軸国との戦争に勝利するためには数学者その他の専門家が要るという、戦争を不可避の前提とした場合の、それ自体は比較的まっとうと言える判断がその例だ。本邦だと昨今の文科省の行状やアジア太平洋戦争を見ても明らかなように素人などの狂信者がデカい顔をするところは本邦の由緒正しい伝統っぽいわな。Twitterを見る限り、大学やその研究者が文科省にいいように振り回されているのを見る(例.佐野太氏の「ようはどうやってだますかですよ」に怒る人々等)ので、まあ他人事ながら大変やなわははと見ているわけです。というような違いが厳然として存在するわけだ。
そしてこれらの数学者が戦争にどう協力したかという文書が戦後50年以上たってから明らかになる という記録の徹底ぶり。彼の協力を評価すべきかどうかは知らんし、もっと早く公開すべきだったのかもしれんが、その前提となる記録がちゃんと公開されるというのがすごいわけですよ。彼らが記録を残しているその頃、本邦では無条件降伏してからGHQが来る前に全部燃やし尽せと奥野誠亮とかがせっせと行政文書を燃やしていたわけです。ドラム缶に隠匿とかな。どうよこの違い?非文明国にようこそ。
エニグマ暗号が解読できたことを敵にバラしてはいけないとする下りはミクロの正しさに拘る俺としてはまあ納得行かんものがあるが、理性的な反応ではないかもな。
まあ上に挙げたような違いは映画の評価とはなんの関係もない。そこで、次にそういった題材である歴史的事実をどのように娯楽作品に仕上げたかというところで気に入った点を書いておく。
(国家に)大きな貢献をするのはどういう属性があるかとは無関係になしうることがある、というのがこの作品の大きなテーマだろ。べつに「国家に貢献」に限らずとも「一般に社会に貢献する行為」ぐらいの広い意味で捉えておいてもテーマとしては無理がない。「誰もが予想しなかった人物」というチューリング役のセリフ(というか字幕)は、ここで社会的少数者の属性を持つということを含意しているわけやな。もちろんここで映画が伝えるこのセリフのニュアンスは、「彼がすごい同性愛者なので同性愛は一般にすごい」という主張ではなく、また、「彼だけすごいので同性愛者でも特別に許してやれ」という話でもないことはあきらかで、むしろ、「ものすごい業績をなす人物がたまたま少数者ということがありうる」という(たぶん)あたりまえの話だと思うわけです。ゲイだけでなく自閉症スペクトラムとかそういった属性を取りたてて貶すのでも聖化するのでもなく、業績とは(たぶん)無関係に捉えましょう、単に違いとして受け入れよう、そして製作者がこれを見た人に求める態度なんじゃないかと思うわけです。知らんけど。というふうに評価すると、ガーディアン紙が「紋切り型のメッセージだな」という本作に低い評価を与えたのとは同じことを言っていることになるのか。
女性が職場で多くの男性と一緒に仕事するときに演じなければならない(と女性自身が考える)役割、という立場のつらさがあることをまたこの話は伝えている。これはジョーン・クラーク役が表現していることで、当時から(今もある)女性に対する職場での不平等な取り扱いを認識せよと迫られているわけです。まあ俺は男なんでほんますいませんなという感じはある。
というような感想を持ち ました。
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