『フランケンシュタイン』の話というのは、愛するつもりがないのなら産むなと怪物が絶叫する話ではあるけど、それを作者の主張だと捉えるのはいささか早計に過ぎるのではないでしょうか。フランケンシュタイン博士の生んだ怪物というのは、頭は遅滞なく回るがなんらかの(発達)障害を持つ人間の表象だと思うんですね。怪物の負の特徴というのは顔が怖くて気持ち悪いとハードウェア面に由来するものですが、これは作中の辻褄合わせとしてそういった特徴だけにしぼられているのであって、実際には表情や話しかたといったソフトウェア面から来る気色悪さというものも込められていると解すべきです。で、美人のお姉さんがそういう特徴を持つ俺を気持ち悪がって恐れて愛してくれない、したがって美人のお姉さん(フランケンシュタイン家のお手伝いであるジュスティーヌ)を美人だからという理由で憎んで自分のおかした罪を被せてしまう。といったようなフランケンシュタインの怪物の発想は、すこし前に東京のあたりで知られてかつ殺害されてしまった「性のよろこびおじさん」の理屈と似ているわけです。
「性のよろこびおじさん」と彼が呼ばれるようになった経緯は、彼とフランケンシュタインの怪物の発想を支える理屈と似ています。彼は、地下鉄の中で(きれいな、または彼の好みの)お姉さんを指して「性のよろこびを知りやがって」と言うわけです。(俺はそんなよろこびを知らないが)きれいな君たちはそれをよく知っている。俺は君らがうらやましい、俺もそのよろこびを(君から)知りたい。みたいな感じでしょうか。知らんけど。
フランケンシュタインの怪物も和姦と愛が欲しかったので、妻を作るようフランケンシュタイン博士に要求します。作ってくれるなら人間社会から遁世してやってもいいが、そうでない限りは人間社会に対する脅威でありつづけるぞと博士を脅迫する。結局そんなものは作れるわけがないので怪物が人間社会に対する脅威だという点は変わらないわけです。性のよろこびおじさんに対しても同様に、彼に性のよろこびを教える女性が出てきたら彼は満足したのでしょうが、この社会では個人の自由が尊重されるはずなので、恋愛関係にも契約関係にもない人間が交尾してやる義理はまるでないので彼は生きていたとしても、性的な話題を振りまく"歩くセクハラ機械"だっただろうことは容易に想像できます。
で、結局彼も無事に治安に対する脅威と見なされて定型発達であろう方々に地下鉄で取り押さえられて殺害されてしまいました。余談ですが、じっさいこれはセクハラなので、死ぬべきだったかはともかく彼はその行為をやめるべきでしたし、言及対象が特定の人物であったならストーカー行為であったかもしれません。にもかかわらず裁判手続を経ることなく私刑そして死刑を処せられてしまったのは、中世の刑事司法っぽくていかにも本邦らしいと思いました。
『フランケンシュタイン』の話も作者の意図は似たようなところにある。つまりこういった、外見(や行動様式)が特異であるために愛されない者や、にもかかわらず愛を欲する者は治安や平和的な生存に対する脅威だというのが作者の意図であって、したがって障害者に対する人種主義こそがこの作品の駆動力だと言えるんじゃないでしょうか。障害者が必ずしも愛されない者だとは思わないですが、それらに対する人種主義的な敵意や憎悪があることは周知の事実ですのでそういった偏見を持つ人間の中にきれいなお姉さんがいることは確率的に否定できないのではないか。そこで私は作者をクソレイシストであると悪い名前で呼んでこの話を終えます。
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