2018年10月23日火曜日

『SUITS/スーツ』を名乗る糞がリーガルドラマを名乗る罪深さについて

フジサンケイグループに出せるクオリティとしては上限目一杯まで絞って制作された作品であろうことは認めますが、まあこれが失われた20年の集積点であることを思わせるに十分な出来であった。早い話がゴミということです。俺の青島俊作を返せ(?)。

フジサンケイグループにとって弁護士ドラマ(またはリーガルドラマ)と言えば、彼らはこういう会社の取り合いみたいな私人間の争い(第三話)しか思いつかないわけです。社会正義を実現するとかいう類いの話でさえない。てめえのオキニのブランドが海外移転すると困る、約束もあったしという程度の「俺の美学が許さねえ」みたいな私小説級に世界の狭い話を流されても困るんです。

そして出てくる弁護士は意味もなく優雅ですし、織田裕二は部下にも常に優雅であれと迫る勢いです。彼は威張るときも優雅に威張り自慢するときも優雅に自慢し、同僚に出し抜かれて意気消沈するときも優雅です。おまえはあほかという話でしかない。織田裕二弁護士がメインなのか鈴木ダイスケが経歴詐称しながら非弁行為 やるという話がメインなのかはわからんが、いずれにせよ痛すぎるし、後者だと特にプロの仕事をなめているという点で非常に問題がある。

さらなる問題はフジサンケイグループの抱く弁護士像というのがこんな感じの優雅な奴らでしかないということを意味し、ひいては世間一般も同様なんだろうということです(主語がやや大きくなりました)。もちろん大企業ばっかクライアントに持つパートナー弁護士とかだと実際こんなもんだろうとは思う(俺のパートナー弁護士についての基本的イメージはジョン・グリシャム作品に依っている)し、これでは優雅さを描写しきれてない恐れさえある。けれども現実の弁護士は、自らを「弁護士」と名乗る野村修也先生ばかりではないし、俺を含めて皆もそう解すべきでない理由がある。

弁護士は国民に存する主権の実質部分を担ううちの主要な職業なので、その質と量が権力の腐敗を阻止する上で決定的に重要なわけです。弁護士がせいぜい私人間の諍いで儲ける商売でしかないというイメージが定着していることは、私人間ではない戦いを担うなんてイメージはほぼないかまたは全くないってことなわけです。おとなりの韓国だと映画『弁護人』では国家権力とギリギリと渡りあう弁護士が描かれているし大統領も弁護士かつ民主化運動出身だったりする。本邦でもいないわけではない、古くは正木ひろしとか、最近だと官邸前抗議行動に出前して見守るとか関西だと民族的マイノリティとかの弁護をされる方とか無令状GPS捜査の違法性を勝ち取る人がいるが、しかし全体としてそうはなってないし、その結果がこのドラマの提示するイメージです(実際そうなってほしいという制作側の意図が込められていることは割り引いた上で)。本邦に存在する弁護士は、憲法制定までは国民議会を解散しないとテニスコートで誓うタイプの人々ではなく、企業の役員とワインを開ける社会のフリーライダーであるわけです。インハウスについては知らんが量としては無視していいんじゃなかろうか。

したがって本邦の現状がこの有様なのは当然の帰結だと思うわけですが、フジサンケイに作れるリーガルドラマの敵役に国家権力が存在しなかったり争いが社会正義を実現する類いのものではないという事実が本邦のみなさんのリーガルまたは主権リテラシーを測る上で重要な指標になっているんじゃないでしょうか。そこへ行くと『オクニョ』なんかはすごいぞ、あれは中世か近世の話だが、国家権力と戦うにはどうしたらいいかと日夜考えているし、もっと地に足つけて勝負している。さっき引いたジョン・グリシャムだって、例えばパートナーに昇格間近の弁護士がすげえファームを辞めてホームレス専門になる『路上の弁護士』という話だってある。話の種類が違いすぎるので単純に比較はできんかもしれんが、意味のない優雅さにあこがれるのは20年前に卒業すべきだったの(もちろんそれができたらこの現状はなかっただろう)であって、もっと地に足つけて話作れってこった。

調べてみると原作はアメリカの人気シリーズらしいので俺が偏見を持って見ていただけなのかとも思ったが、話がおそろしくつまらないのは事実なので翻案する際に本邦側の脚本家が意図的につまらなく改変しているのではと思うに至った。というわけで原作のファーストシーズンだけでも見てみる必要がありそうだ。

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