2018年9月25日火曜日

メモ:表現の自由戦士よ立ち上がれ(揶揄)

背景

ご存じヘイト雑誌と化して2年経つ『新潮45』とそのヘイトスピーチ記事とそのヘイトスピーチ擁護特集の二本が最近話題であるという話。 まあ俺自身も思ってたことはあるんだけどね。早い話が表現の自由を「表現を享受する自由」というふうに理解していたという黒歴史が最近まで。まあでもそれはおそらく2013年ぐらいまでに消えたと思いたい、というのはヘイトスピーチを見たからだと思っている。厳密にはそうではなくて2013年以後もしばらくそういう杜撰な理解をしていた期間はあるのですが、まあ愚かだったなと。それはともかくですね、匿名の俺よりも実名の狂信者をどうにかすべきなんじゃないのという意味で記録しておくのが以下の揶揄であります。

こういったヘイトスピーチを黙らせろという話に対して本邦が到達した理論的水準の最高峰がこちら。 このラジ男やらキクマコは「私が間違ってました」と認めるまでは死ぬべきではないのではないか(真顔)。まあこういう人らだって何らかの専門家ではあるとしても、法学の専門家ではないしましてや人権思想だかの専門家でもない素人による戯言であった、というのが事実レベルでの結論ですわね。まあ法学等の専門家でなければ言ってはいけないとも思わないが、人種差別撤廃委員会とかの審査を聞いてると「それは言論の自由ではない」という国際的な(おそらく)常識が本邦では通用していない様子なので、やはりこういうのは素人の分際で公共空間で賢しらに言葉遊びされるのは単純に迷惑ですよね。結局のところ、複素数もわかんねえような素人による「原発を動かしてれば北海道全域停電は防げた論」みたいなのを公共空間で吐かれると単純に迷惑だ、という(社虫太郎氏だったかの)話と同型でしかないので某プライベートモードの「おとうさん」アカウントよりは余程罪深そうである。以下、発言のサンプルを置いておく(他にもいるはずだがとりあえずこの二名):

ラジ男は一元的内在制約説のことを言っているらしいが、その仕組みがヘイトスピーチは言論の自由に含まれないという話と競合するというお説らしい。しかしヘイトスピーチが言論の自由に含まれないのは by definition なんでそこまで頑張る必要がというのは思いますわね。まあ知らんけど。

メモ:表現の自由戦士

にもかかわらず今回のヘイトスピーチ擁護特集について言論の自由である、伝ヴォルテール発言に従って擁護する人が少ないのはなぜかという問題意識があるわけだ。





















だんまりなのは誰か。とりあえずキクマコとラジ男はそのようである。なるほどこれが「賢い人はもう何にも言わなくなっている」というやつか。

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