2018年8月25日土曜日

ドイツ映画『ヒトラー暗殺、13分の誤算』(2015)

「ヒトラー暗殺、13分の誤算」(2015)というのを見た。いやーすげえわ。おわり。 暗殺みたいな手段であったとしても反体制の闘士として名誉が回復されるのほんますげえな。 よくネトウヨが言うところの「平和主義者のくせに暴力なんて手段が主張と矛盾ー」という話にはどう答えるかの ヒントになっているな。要は矛盾してないってことなんだけれども、「平和主義」の意味を個人の行動原理としての「非暴力」を指すものだったとしたら たしかに競合はするかもしれん。だからまあそういうのはやめたほうがいいんだと思うわけですね。個人の行動原理としての非暴力をやめようという ことではなくて、憲法9条の戦争放棄は国家に対する命令だという理解から一歩も外に出なければいいだけの話だろうと思うわけです。そうすると たぶん人民の権利としての抵抗権と矛盾するところはないんじゃないのかな、知らんけど。

エルザーの行為は抵抗権を行使するための条件を見たす(とはいっても吹替のせいか明示的ではない。原語だとどうなんだろうか?)と彼の役によって語られる場面がある。それ以外の手段はもう封じられたと、収容所に入れられた友人の共産党員に話すシーンがたぶんそれだ。 直観的にはわかるんだけど、抵抗権(革命権)というのは個人の権利として理解するのは難しそうな気がするので(なぜなら個人で他人を傷つけるのは基本的人権の侵害だから)まあよくわからん。他の手段はなく、国家権力という集合を空にするような試みだからOKだという感じでしょうか。

「憲法9条を素直に読むと自衛隊は違憲」の暴力性、といった理屈を考えつく関東在住のネトウヨ法哲学者であればもちろん上記のようなネトウヨ的見解を支持する理屈を思いつくのでしょうけれど、まあそういうのに反論するのは誰かやってくれや。

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