レベッカ・ソルニット『災害ユートピア』(亜紀書房、2010). 440頁. 2500円+税.この本のジャンルはポピュラー人文学書というんだろうか、ポピュラーサイエンスの人文学版といった趣きなんだと思う。 ジャーナリズムに入るのか?ちょっとわからん。研究として見たときには、こういう作品はオリジナルの業績としてカウントしないのかもしれんけど俺のような パンピーが知る上でこういう本の存在は大切だからな。
最初の4章で大災害の事例に即して災害学やら災害社会学上の常識があること、 最後にハリケーンカトリーナに際して筆者が現地に赴きこれらの知見を適用してみた(5章)、というような話。災害についての常識は以下のようなものだ。 災害の直後に、被害当事者の中に相互扶助や利他主義からなる上意下達ではないコミュニティができるということ(1章)、 ボランティアは人の役に立ちたいと思って来ること、 ハリウッド映画に描かれるような「群集によるパニック」など決して起きないということ(2章)。 また、その外ではヒエラルキーのある組織が災害対応に際してパニック(「エリートパニック」)を起こし、被害者を敵視すること。 最後に、ハリケーンカトリーナの例もこれらの通りだと見た上で、 日常の社会が既に災害であると見れるので、この災害時とその延長にしか現れないコミュニティを日常に持ってきたい、という話だった。 とくにこの組織の対応に「エリートパニック」という名前がつけられているという話は新鮮で、この点だけでも知る価値のある話だろう。
こういう災害後に現れる共同体がユートピアだか楽園とかと名前がつけられるの、たしかに小説で登場する楽園と似ているところがある。 たとえば『ガリバー旅行記』のフウイヌム Houyhnhnm が住む世界がガリバーにとって(おそらく作者のスウィフトにとっても)ユートピアっぽいあつかいだったりする。 フウイヌム(馬)が嘘の概念を知らんかったり、物はぜんぶ共有しますねと言っているところが本書で対象になる相互扶助と共通している。まあそれは今どうでもいい。小説は現れない前提で書かれているが、災害の場合はその後に発生し、そしてだいたいすぐ消滅する。消滅せず、そのままほぼ革命に至った例はメキシコ大地震などがあるようだ(3章)。のちに、災害後に発生するこの相互扶助の共同体を持続させたいという話になる(エピローグ)。
本書は1906年サンフランシスコ大地震から2005年ハリケーンカトリーナまでの話で一貫してアメリカ大陸の話なので、 時間と空間をずらしても適用可能な普遍的な事象なのかということについて、つまり本邦の人々に適用可能なのかという興味がある(俺は日本語でこれを読んだので)。 このような相互扶助を発揮するコミュニティは、たとえば東日本大震災ではどうだったのか?発生したのか? 今年の西日本豪雨災害ではどうだったのか?現時点でもそれは行われているのか?というところに興味がある。 誰か同じ視点に立ってまとめたり考えたりしててくれないんだろうか。 というのも、俺はこのようなコミュニティが発生するかどうかは(例えば)一般的信頼の関数になってるんじゃないかと思っている。 つまりこういったコミュニティの発生には条件があって、 本邦では起こっていないとか別の現象があるんではないかとかそういうことが気になっているわけです。 エリートパニックについては、本書では関東大震災下の朝鮮人虐殺の例がちらっと数行から1頁程度取り扱われるが、結局のところそれらは ハリケーンカトリーナや1906年サンフランシスコ大地震であったようなエリートパニックとあまり変わらない様なのです(このことは本文には明示的に書かれていいない)。 まあそれはそれでいいんですが、本書で示されたような相互扶助の性質を持つ幸せなコミュニティが本邦で発生した/しうるのかどうか? ということが知りたいわけです。2010年当時これがどれだけ話題になったんだろうか。俺が知ったのも2011年以降だった。
気になるのは表記の揺れ。こんなもん機械つかって自動化とかなんとかせえやという印象しか受けない誤植をよく見る。 「シエラクラブ」と「シエナクラブ」とかな。あとは「ボーゼマン」とか、これはモンタナ州ボーズマンのことだと思うので表記の揺れというよりは 発音に則ってない表記の問題かもしれんが。
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