2018年8月30日木曜日

アニメ映画『聲の形』(2016)

アニメ映画『聲の形』(2016)を見た。まあよくわからんのですが、ストーリー上の説明が足りなくて最もわからなかった点は石田をみんなで川からひっぱり上げたのは島田とかだ、というところだ。植野がそう言うのだが、石田は硝子を助けた後にマンションから落ちたのではなかったのか(この点ネタバレ)。どの点の話なのか。最初の170万円の封筒を置いた時の話か。

石田も西宮も一人親家庭だったり、石田の姉の夫は(おそらく)日系ブラジル人だったりしてて、大垣のあたりの事情をよく反映した設定なんだろう。なんというか縁遠い世界だ。

総体として話をどう評価していいのかはよくわからん。思うに、加害者の主人公が被害者と和解もせずに仲良くなる話というのは、聴覚障害の事情をどれだけリアルに表現していたとしてもありえないという印象を受ける。西宮の母親も久しぶりに石田に会って平手打ち程度で済むというのもちょっとあれ。普通なら「二度と関るな」とか警告したり裁判所に西宮の自宅と学校から半径0.5kmの接近禁止命令の仮処分を申請とかするんじゃねえの常識的に考えて。そんなことできるのか知らんけど。

でもこの作品がだめだというのでもない。なんというか美しさはある、ただそれがいいのかよくわからん。加害者が自責の念に苛まれるのと、被害者の自己肯定感が低まりまくってどちらも死にたいというのが平行する理屈はまあわかる。でもなんでそれで和解もする前から被害を受けた側が加害側に「ちゅき」とか言っているのかという感じがあって、これは理屈が通らない感じがある。加害側にやたら都合のいい展開であるという印象は拭い切れない。被害受けた方は加害者見たら逃げるだろ、西宮が久しぶりに石田に会った最初の時のように。それがなぜ最初の1回だけなのかという感じが不自然に感じられてどうにも。見ただけで足がすくんで腰が抜けるぐらいいじめたのでないと転校せんだろと思うので、まあよくわからん。

良くも悪くも日本人が作る物語という感じはある。泣くのは登場人物の勝手だが、それをそのまま映像表現にされてもわからん。映像表現の点ではもっと因果関係が明示的になるよう作ってくれんかなと思う。いずれにせよ、涙の描写で何かを表現しようとするのがちょっと安すぎる感じがして俺は好きではないです。なんというのかこういった直接的な表現を避けられないものか。たとえば、「主人公は常に下を向いている(た)」ということの映像表現を全員の顔に×としたのはすごくおもしろかった。下を向くのをやめた、ということの表現として×がひらりと取れるというのもいいと思う。その延長として、どうして「石田が泣く」とか「西宮が泣く」ということの映像表現は「泣く」しかなかったのか。ここがちょっとあれ。病室から起きて橋に来た石田を幽霊ではないかをたしかめようとして、西宮が石田を指でつつくのとかもすごくいいな。

しかし久しぶりに本邦のアニメ作品を見た。某『サマーウォーズ』よりはよほど真剣に考えた感じの話なので俺はこっちの方が好きです。

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